人間の器量 (新潮新書)

人間の器量 (新潮新書)

 図書館で借りて読了。福田和也のいくつかある路線の内、世を憂う説教本路線。中身は、特にどうということはない、明治から昭和前半くらいまでの器の大きい人物紹介と、戦後は器量の大きい人物がいなくなったという嘆き節の、短いもの。気晴らしの読み物程度といったところか。
 この手の「最近は大人物がいなくなった」って、そんなに悪いことなのかという疑問がある。飛びぬけた人物がいないというのは、教育制度が整備されることなどで、平均的に知的水準などが向上し、昔みたいに少数の非凡な人間に多くを任せなくてもよくなったということなんじゃないかと。昔と今のトータルのパフォーマンスで比べたら、むしろ今のほうが優れているというのは、十分ありそうな話だ。
 似たような話で、野球で4割打者がいなくなったことを生物学者のグールドがテレビ番組で紹介していた気がする。4割打者はいなくなったけれど、それは昔の選手が今より優れているんじゃなくて、全体のレベルがあがったために、結果的にそうなったと。昔のオールスターチームと現代のオールスターチームが対戦したら、おそらく現代の方が勝つのではないだろうか。
 まあ私も、将来の年金の心配するような人間より、本書で紹介されているような人間のほうが魅力的であることは理解しているし、「天才」のいる不幸な時代のほうが「天才」のいない幸福な時代より価値があるのかもしれないと思わないわけでもないのだけれど。