- 作者: 小谷野敦
- 出版社/メーカー: ベストセラーズ
- 発売日: 2010/01/09
- メディア: 新書
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「純文学や文学研究は、今後は、ほかに仕事を持つ人の趣味、余技としてしか存在しえなくなるだろう」(「あとがき」より)というのは、大いに同意。
個人的な予想だと、人文科学は大雑把に二つの方向に分かれて細々と生き残りを図ると思う。一つは自然科学(や社会科学も含めてもいいかな)に関係していなくもない分野が、自然科学のおこぼれに預かる方向。要は「役に立つ」と言っても完全に否定されない学問というイメージかな。分野としては、哲学(特に科学哲学絡み)や語学がこういう方向で存在意義を主張できるかもしれない。
もう一つは、小谷野さんのいう趣味・余技の方向に近くて、古典芸能や伝統芸能みたいなものとして、保護しなければこの世から消滅してしまうということで、文化継承のため研究を続けさせてもらうという道。
ただ、両方とも勝ち目がほとんどない退却戦なのは間違いないので、今後大学から人文系の学部が減っていくのはしょうがないだろう。
大学から離れて、ジャーナリズムの中や個人的な塾・勉強会も、どう考えてもそれで飯を食うのは難しいだろうし、厳しいだろうなぁ。
最後に、学生時代哲学をかじったものとして本書で気になった箇所への疑問を。
224ページから231ページの「東大駒場の中山茂事件」という箇所で、中山茂さんについて「厖大な科学史の業績があり・・・」(p.225)「中山に碌な業績がないならともかく、抜群の業績があるため・・・」(p.228)という記述がある。
これ、本当にそうなのかというのが疑問。私の学生時代(もう10年くらい前になるけど)、廣松渉や大森荘蔵はもちろん尊敬されていて、それなりに読まれていた(今も読まれてると思う)が、中山茂さんの本を読んでいる人ってほとんどいなかったと思う。
それどころか、中山さんは『科学革命の構造』という超有名本のダメな訳者として批判されていた。私はみすずの翻訳書を自分で確かめたわけではないが、当時私が教わっていたある哲学の先生は「あれは根本的に英語を分かっていない人の訳」「みすずがあの訳を出版し続けているのは犯罪的だ」とまで言っていた。その先生は、業績も素晴らしく人格的にも尊敬できる方だったので、根拠なく言っているわけではないと思う(ちょっとググッて調べたらこんなページもあった)。
もちろん、科学史で中山さんが私の知らない業績を挙げているということもありえるが、どうやら大分語学力に問題がある人が、立派な業績を上げていると考えるのはちょっと難しい気がする。小谷野さんが、中山さんが著作をたくさん出しているので、業績があると勘違いしている可能性のほうが高いのではなかろうか。誰か詳しい人教えてください。